色々あったよね その1
当時、幣原はすでに、国民党政府がおそかれ早かれ中国を統一するであろうし、そのときには中共が排除され、蒋が中心人物になるであろうこと、軍事占領をしても、それは対中国の泥沼戦争にひきずりこまれるだけで、効果をあげる見込みのないことを理由としてあげていたが、この外交的見通しはきわめて正しかったといっていい。
これより先、二年一月には、武漢政府は呉鉄城を日本に派遣して国交調整の交渉にあたらせていたし、三月には幣原は、佐分利貞男公使を漢口に派遣して折衝をおこなわせていた。
それは、張を中心とする軍閥の操縦によって日本の権益を守ろうとする軍部や右翼のいき方とは、まったく対立するものだったが、当時、イギリスをおしのけながら華中・華南への輸出を拡大していた日本の商社や綿業資本にとっては、むしろ歓迎すべき政策だったといっていい。